2010年01月10日
いろは丸~龍馬と鞆の浦の関係
坂本龍馬ら海援隊の乗った いろは丸は、1867年4月23日、紀州藩船明光丸と衝突し鞆の浦に向うが沈没。鞆の浦で、海援隊と紀州藩との間で、日本最初の海難審判といわれる談判が行われました。交渉は長期にわたったが決裂し、長崎で決着。巨額の賠償金を海援隊は手に入れることになるが、龍馬は寺田屋事件で暗殺されてしまう。巨額の賠償金は岩崎に流れ三菱財閥の礎になったのではないかと憶測されています。
そのとき談判の現場となった建物が、鞆の浦に残されていました。


今は、鞆まちづくり工房がここに入っているようです。


長期にわたる交渉の間、龍馬らは、この建物の屋根裏に潜み、紀州藩は円福寺に宿泊したそうです。
そのとき談判の現場となった建物が、鞆の浦に残されていました。
今は、鞆まちづくり工房がここに入っているようです。
長期にわたる交渉の間、龍馬らは、この建物の屋根裏に潜み、紀州藩は円福寺に宿泊したそうです。
Posted by おサル at 13:39│Comments(0)